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サルサ

Salsaサルサの歴史
*** ビデオ"The History of Salsa Dancing"のご紹介

サルサはキューバのダンス音楽ソンをベースに、マンボの黄金時代を経てニューヨークで完成したと考えられています。その成立の過程における壮大な歴史を鑑みて、また世界各地の民族が育んだリズムと楽器の融合がこの音楽の誕生を可能にしたことから「サルサ=いろいろな材料を混ぜ込んだソース」と名付けられたのです。

ここに掲載するビデオ"The History of Salsa Dancing"はサルサの複雑な歴史を明瞭簡潔に、しかも実に愉快に示すことに成功しています。サルサ音楽に貢献したミュージシャンの名前や出来事は枚挙にいとまがありませんが、あえて最重要事項に絞り込んだことがこのビデオの成功要因になっています。

第一部では奴隷貿易によってキューバにアフリカのリズムが持ち込まれたこと、第二部ではマンボの熱狂時代、第三部ではマンボからサルサが誕生するに到った状況が描かれています。

このビデオには主にニューヨーカーの観点から見たサルサが紹介されています。ニューヨークはご存知「人種のサラダボウル」と呼ばれる街で、ブロック毎の持ち味が一つの民族によってはっきりと色分けされる特徴を持っています。そんな中でEl Barrio=The Placeと呼ばれるスパニッシュ・ハーレムはプエルトリコ系民族の一大拠点となって、文化的にも政治的にも強い影響力を持ってきました。彼らがサルサ音楽とダンスに及ぼした影響力は計り知れないものがあり、ニューヨーカーにとって「サルサは断然、ニューヨーク発祥の独自の文化である」という誇りは想像以上に強いのです。

よってニューヨーク以外のサルサについて、ご観覧の下準備としてざっくりとご紹介させていただきます。

キューバではサルサのことをカッシーノ・ダンスと呼び、ビデオの中でも紹介されているルンバとソンの影響の色濃いダンススタイルが健在です。日本でもキューバンスタイル・サルサはかなり早い時期(私が知る限り80年代にはキューバを代表する格のあるダンサーたちが日本での指導を始めていました)から紹介されました。またそれよりずっと以前から、多くのラテン音楽ファンはキューバを通じてラテン文化の門をくぐりました。キューバ音楽およびダンス文化の豊饒であることは世界にも類稀なるものであり、そのご紹介は機を改めることにいたします。

ロサンゼルススタイルとよばれるサルサのスタイルはニューヨークとまさに東西対決の様相を呈しています。その基本ステップはビデオで紹介されるOn2と呼ばれるスタイルに対し、On1と呼ばれるものです。On1スタイルはキューバのカッシーノ・ダンスの基本ステップと相性が良く、またメロディーを口ずさみながら踊るのに適しているという性質もあいまって、日本に広く受け入れられました。ロサンゼルスおよび西海岸で活躍するサルサダンサーは数多く、On1スタイルはOn2と並んで、サルサダンスを代表する二大スタイルとしてこれからも踊り継がれていくでしょう。

またコロンビアもサルサの一大拠点として世界に名を馳せています。私自身は残念ながらまだコロンビアを訪ねる機会を得ていませんが、サルサダンスの世界大会を制する強豪チームやGrupo Niche(グルーポ・ニーチェ)、La33(ラ・トレンタ・イ・トレス)といった人気サルサバンドの存在からして、コロンビアはキューバやアメリカ合衆国と並び称されるサルサの聖地といえるでしょう。ビデオでは第三部の一番最後で、コロンビア名物の鮮やかな黄色の衣装を身に着けた子供たちが猛スピードでステップを踏む姿が紹介されています。

それではビデオ"The History of Salsa Dancing"をご覧ください。各映像の下に日本語訳を添えています。


"The History of Salsa Dancing Part 1 - Afro Caribbean Origins"
「サルサの歴史 その1 - アフリカ系カリブ海文化の始まり」




「サルサとは何か」

サルサは映画でもテレビでもクラブでもPVでもどんな地方のダンススタジオにも登場するけれど、誰かこの繊細でセクシーなダンスがどこからやってきたのか本当に知っている人はいるかい?
ここでその答えがわかるよ。さあ、サルサの歴史第一部の始まりだ!

サルサは中南米、アフリカ、カリブ海の島々そしてアメリカ合衆国にルーツを持つ世界的に人気のあるダンスだ。サルサという言葉はいろんな材料を混ぜ合わせたソースという意味で、それは同時にこのダンスの繊細でスパイスの効いた美をあらわしてもいるんだね。

「それは・・・アフリカで始まった!木に皮を張ったコンガとともに!」

サルサの起源は奴隷貿易の際、アフリカのリズムが新世界キューバにルンバの形で伝わったことに端を発する。それら古来のリズムは神々を呼び寄せるために使われていたのだ!

奴隷たちは強制的にキリスト教に改宗させられたけれど、自らの神々を隠語で表現することによってなんとかしてその遺産を受け継いだ。キューバでアフリカのリズムはすでに公に認められていたダンス音楽であるダンソンに融合した。キューバのソンといわれるスタイルが起こり、この時点でアフロ・キューバンの音楽でクラーベが中心的な役割を果たすようになったんだ。

「これがクラーベです。クラーベはラテン音楽・アフロカリビアン音楽・西アフリカ音楽の中で最重要か、それに次ぐ役割をもった楽器です」

1922年にラジオ放送が始まって、それとともに禁酒法を逃れたアメリカ人たちがやってきた。これが契機となって、ソンを通してはじめてアフロ・カリビアンの音楽がアメリカ合衆国で人気を得るようになる。1930年代には「ルンバ」と銘うたれたダンスがアメリカダンス界に登場した。この社交ダンス系ルンバはキューバで踊られているルンバとは全く別物だということを知っておいてほしい。うーん、どうだろう、でもとにかくこの社交ダンス・ルンバは今も人気で、サルサのスローバージョンのようにも見受けられる。たとえば足の運びだとかヒップモーションだとか腕の使い方なんかにね。

信じられないかもしれないけれど、キューバのダンソンはイギリスの社交ダンスが起源になっている。ここですでに、一歩下がって一歩前に出る、っていうベーシックステップを見ることができるんだね。

さて1900年代のはじめにキューバの作曲家Orestes Lopez(オレステス・ロペス)が「マンボ」というタイトルのダンソンの曲を世に送り出した。1943年、有名なバンド・リーダーでオレステス・ロペスの友人でもあるペレス・プラードが自らアレンジした曲をマンボと呼び始めた。そのときマンボという言葉は「神々との対話」という意味を持っていたんだ。つまりアフリカ音楽全体の影響を呼び戻そうとしたんだね。ペレス・ブラードのマンボは当時のキューバ音楽をずっとテンポアップしたもので、バンドには何名ものブラスセクションとドラムを加えた。彼は自分のマンボ音楽にぴったりのマンボダンスを思いついて、1943年にハバナのナイトクラブ・トロピカーナでショーとして打ち出した。1951年にはアメリカ合衆国にツアーをしてマンボダンスは熱狂的に受け入れられた。ペレス・プラードはこうしてマンボ・キングの異名をとることになったんだ。


"The History of Salsa Dancing Part 2 - The Rise of Mambo"
「サルサの歴史 その2 - マンボの夜明け」




「行け行け、マンボ!」

マンボダンスはアメリカ合衆国においてはニューヨークのパーク・プラザ・ボールルームではじめて紹介された。ここはスパニッシュ・ハーレムの熱烈なダンサーたちの溜まり場だった。しかしながらマンボ人気の本格的な爆発は1947年、マンハッタンの中心街にあったパラディウムでおこった。パラディウムは当初白人専用のクラブだったけれど、売り上げが伸び悩んでいたのでスペイン人プロモーターのフレリデリコ・プレパーニがクラブオーナーにラテン音楽を取り入れるよう説得することに成功した。とはいっても日曜の午後だけという条件だった。プエルトリコ人やキューバ人といった有色人種も入場できるようになって、白人・黒人・ラテン人種が一同に会した。
パラディウムのマンボダンススタイルはアメリカに旋風を巻き起こした。パラディウム時代はマンボの黄金時代で、毎夜ティト・ロドリゲス、ティト・プエンテ、マチートのマンボビッグ・スリーのリズムが溢れた。ティト二人はマンボにプエルトリコ音楽の要素を加味したし、彼ら三人はジャズやアフロキューバン音楽をマンボに融合させた。これがラテン音楽の進む道に素晴らしい塗装を施し、後にサルサと呼ばれるようになる音楽的下地を築いていったというわけだね。

そんなわけでパラディウムのマンボやチャチャチャはサルサの元祖だが、それでもやはり今とはかなり違っていたんだ。男女はソロで踊ることが多かったし、ビートのとり方もばらばらでまだオン1とかオン2といった形式は成立していなかった。パラディウムに集まるダンサーたちは様々な背景を持っていて、社交ダンス・タップ・ジャズ・スイングといったそれぞれ独自の解釈で踊っていた。それらがみんな取り込まれて新しい「マンボステップ」に昇華していったんだ。

1966年5月にナイトクラブとしてのパラディウムは幕を下ろし、ビッグスリーはナイトクラブ「ザ・コルソ」に新天地を求めた。マンボはほとんど毎晩演奏されていて、ここで若きプエルトリコ人、エディ・トーレスがクラブで踊るダンサーたちを見てマンボを習得した。このときマンボはすでにコンパクトなダンスに変化しており、クロスボディリードやスピンが行われるようになっていた。

1970年代はメレンゲ、ヒップホップの初期段階、ディスコ、ハッスルが現れてきた。まあまあかっこいいかなあ・・・という感じ。ボクが思うに高校生バンドほどひどくない、というようなレベルで。

一方エディ・トーレスはというと教室を開いてタイミングの2と6をベーシックステップの前後の要にすることでマンボの未来を開いていた。彼はジューン・ラベルタから音楽の法則を教わってOn2スタイルを始めた。またティト・プエンテもコンガのスラップのタイミングがOn2のステップに同調することから、On2はダンスと音楽の相性のうえでとてもよいことを認めた。


「1・2・3・4 5・6・7・8・・・全部で8カウントあるうち、アクセントが2と6にあることに注意しよう。男性は2で右足をバックに、6で左足を前に踏めばいいんだ。正しいテンポで踏むことが大切だよ。こんなふうにね」


"The History of Salsa Dancing Part 3 - From Mambo To Salsa"
「サルサの歴史 その3 - マンボからサルサへ」



「サルサは味であり香りである。サルサはラテンの魂だ。サルサはリズムだ。それはアフリカからやってきた。コンガのリズムとともに。」

1973年、プエルトリコ人の Izzy Sanabria(イズィー・サナブリア)がラテンニューヨークマガジン誌と組んで「サルサ」という題名のテレビ番組をスタートした。1975年には同誌ははじめてのサルサ賞を設けた。ニューヨークタイムズ、ニューズウィーク、タイムマガジンがこのイベントをレポートして、新しい形式の音楽が登場しそうであるということが世界的な興味を喚起した。ミュージシャンの中にはキューバ音楽にただ「サルサ」という名前の新しいラベルを貼り付けただけじゃないかといってイズィーを批判する人もいたけれど、多くの点でこの出来事は独自の何かを自らの力でもたらしつつあった。

「サルサはアフリカから始まった。コンガ、木に皮を張った楽器とともに。そしてボンゴも。さらにクラーベ、これがサルサの基礎にあたる。アフリカとカリブ、プエルトリコ、サントドミンゴ(ドミニカの首都)、キューバ、メキシコのリズムだ。さあここへティンバレス、ギロ、マラカスが加わるぞ。クラーベのリズムは相変わらずだ。そしてサルサの魂、心臓の鼓動がこれだ、ベース!ヨーロッパからは88鍵盤部隊・ピアノが参戦する。これら戦隊の子供たちがアメリカ合衆国にやってきた。そこでジャズの影響で加わるのがブラス(金管楽器)だ!ニューヨーク、ロサンゼルス、アメリカ人・・・・・これが、サルサだ!!!」


アフリカ系キューバ起源の音楽がアメリカで新たな居場所を見つけ、ニューヨークのラテン人コミュニティに適合した。ティト・プエンテ、ティト・ロドリゲス、ウィリー・コロン、ヘクトル・ラボーといったプエルトリコ人ミュージシャンによって引き起こされた革命が、アフロ・キューバを基盤とした音楽をニューヨーク独自のラテン音楽へと書き換えていったんだ。現代のサルサは異なる文化の融合によって引き起こされたアメリカ独自の現象だといえるね。

1980年代にエディ・トーレスはマンボOn2を形式化し、プロフェッショナルなダンサーが標準化されたベーシックステップと、名称のついたムーブメントを学べるようにし始めた。アフロキューバン起源の音楽がニューヨークのラテン音楽・ダンスと並んで「サルサ」という言葉でもって国際的に受け入れられるようになってから、私たちは現在踊るサルサダンスに「サルサダンス」という言葉を用いるようになった。ストリートを離れてスタジオでサルサを学べるようになって、生徒たちにとってはスピンの練習が随分易しくなった。その結果今日のサルサはパートナーワークとクローズド・ポジションが増えたんだ。サルサにパートナーワークがとりいれられるようになって、ラテン社会では70年代にハッスルの人気も高まった。それでボクが思うに結果的にはディスコ界からもよいダンスが出てくるようになったんじゃないだろうか。(※訳者注:ハッスルはディスコ音楽と非常に相性のよいペアダンス)でも絶対あのファッションには共感できないけどね。サルサを形式化することでダンスはずっと商業的に売り出しやすいものになった。教室で教えることが可能になったからだ。今や世界中のスタジオがサルサのクラスを持っていて、ペアダンスの中でももっとも人気の高いジャンルの一つになっている。ロンドン、台湾、韓国、インド、それに日本でもサルサは踊られているんだよ。まったくすごいことだね!

というわけでまとめよう。奴隷貿易によってアフリカの人々がキューバに送られた。彼ら奴隷たちの音楽とブレンドされたもともとのキューバ音楽と、クラーベとアフリカの太鼓とのマッチングがここに形成された。ペレス・ブラードの功績によってマンボはアメリカに広まり、彼はブラスセクションを加えたビッグバンドを紹介した。アメリカ人がこれを気に入ってマンボの黄金時代が誕生した。ニューヨークのプエルトリコ系ミュージシャンはジャズの要素とピアノをくわえてさらなる革命を起こした。この音楽にイズィー・サナブリアが「サルサ」と命名した。

ペレス・ブラードはダンソンを洗練させて、新しくてもっとエネルギッシュなマンボという音楽を人々に教えた。このマンボはアメリカ合衆国に渡って、もともとのラテン系ステップを残しつつも社交ダンス、スイングダンス、ジャズ、タップダンスの要素と融合していった。1970年代、ハッスルのパートナーワークの影響がマンボに及び、1980年代にエディ・トーレスによってストリートからダンススタジオへ場所を移して現在サルサと呼ばれるに到ったというわけだ。ふうう!

これがまったくもって様々な文化の融合からなるサルサダンスの歴史だ。サルサは今日も新世代のヒップホップやベリーダンス、社交ダンスやスイングのリフトや空中技を取り込んで発展を続けている。
いまやありえないくらい豊かなサルサの歴史を知った君だから、頭でっかちのサルサ一言居士なんかじゃなく、知性をもって踊りにくり出すことができるよね。以上、スパイシーで混沌としたサルサダンスについて君の新たな理解を深める手助けになったことを祈るよ。ボクのユーチューブのサルサダンスビデオも見てね!そして君たちの後輩にもこのビデオでサルサのことを教えてあげてよね!


※制作者Todd Chen氏より本サイトへの掲載および日本語訳の快諾をいただきましたことに感謝します。
※I'd like to express my gratitude to Mr.Todd Chen for giving me permission of introducing the video on this sight and translation into Japanese.
HP of Mr.Todd Chen

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